昭和41年07月07日 夜の御理解
御祈念前でございましたが、上野さんが今朝からお知らせを頂いた。それがもう汽車に乗らなければならんのに、やっとほんとにやっとの思いで、なら間に合うたという。それから、飛行機が飛んでると思いよったら、墜落しておるといった状態を頂いた。と言う様なお届けをしておりましたが、そのことから思うんですけどもね、信心は難しいのではない。氏子から難しゅうすると。信心はみやすいものだとこう仰るということはその、そう言う様な事ではなかろうかと。
今日は何時の汽車に乗らなければならんと。例えば8時の汽車に乗らなければならんと思うたら、やはり7時半頃からせめて10分20分前に行っておって、始めてその8時の汽車にゆっくり乗れるんですよね。だから信心ちゃそんなもんだと思うんです、ね。ところがそこんところがそのよう、皆んながぱっとそのぐらいのことが出来ん。例えば御祈念なら御祈念が、朝の5時なら5時に始まるのだから、それにそれを汽車に乗るとと思うたらいいのですよね皆が。
5時の汽車に乗るならやっぱり、4時半頃ぐらいからでてきて、やっぱ5分ぐらい前にはせめてきとかなければ。だから汽車に間に合うために、停車場に急ぐようなものですからそげん難しい事じゃないでしょうが、ね。例えばなら自動車の運転を覚えたり、飛行機の運転を覚たり、してこの運転をしていくということは、覚えるまではむつかいしいかも知れんけれど、覚えてしもうたらそう難しい事じゃないでしょ。
んなら覚えたからというてその運転をし居眠りがあったり、その整備に怠りがあったりしたんでは、やはり墜落したり、ね、衝突したりするわけでしょう。だからそこんとこに注意さえしておけば難しいものじゃないと。信心とはそう言う様な意味の事を仰っておったんだと思うですね。それだけのことがようでけん、位な事ではやはりお徳は受けられんと言う事が分かりますですね。信心は難しいもんだとする間は、まだそのほんなもんじゃない。そこが楽しゅうてたまらん。
有難うてたまらん、と言う所にならなければおかげは受けられない、ね。お互いがそれこそ駅にじだ走りし走って行って、そしてほんな出た後んでもいっておるような信心じゃなかろうか、ね。いつも墜落があったりしておるような状態のところがなかろうか。( ? )覚えておっても、居眠りをしておったり、ね、整備を怠ってしとるために、その信心ちゃ難しいもんだのように言うたり思うたりしておる事がなかろうか。
これも今御祈念前に末永さんが、兄さんのお届けをしてから、今日は兄さんから手紙がきまいりました。その手紙の中に、大変おかげを頂いておる事と同時にです、あの今度の学院生の、一緒に信心の稽古をしておるグループの中に、今の金光様のお子さんが、一緒に御修行なさっておられるそうです。それから東京の白神信一郎先生の、五代目信一郎という人が、一緒に学院におられるそうです。
そういうならどことかもいいよった、有名なところの師弟やらと一緒に、まぁ信心の稽古をさせて頂いておるんですけれども、これはこの前の末永さんの手紙の、始めの間は私が椛目の話をすると、皆んながそれに抵抗しよると。ところが最近あの椛目の話にひじょうにその魅力を持って聞くようになったと。そしてもう一事が万事に椛目流儀で言う事やら行う事やらが、みんなのまあひとつの流行のようになっておる、というてそのお手紙きておりましたがです。
最近その金光様のお子さんやら、白神先生のところの五代目の方やらがです、椛目にお参りをしたお夢を同時に頂いたと言う事があり、ただ椛目に話を聞きに一遍行って見たい。どんな先生か一遍会うて見たい。そう言う様なその思いがです、そのお夢に現れて来たと言や、それまでなんですけれども、これは本当に全国からどう言う様な素晴らしい方達でも、椛目にここで私が厳然とした信心が本当にでけてさえおればです、ね。教祖の神様が、この神様がはねふり売りをするな。ふり売りをしちゃならん、ね。
ちゃんとここで座っておりゃ、三百里、二百里三百里は神が引き寄せてやるわい、と仰るような御教えが、教祖の神様の御伝記の中に残っておりますようにですね。私がここでほんとに厳然とした、いわば信心がでけておれば、ね、それこそどういう有名な人であろうが、どういう遠いところからであろうが、ある場合には教えを求めてです、ね、信心を求めて集まって来る様なおかげは頂くであろうけれども、なら果して私が今来られてからこれでいいだろうかとこう反省してみるのがです。
信心はみやすいもんだという、そのみやすいものを、私自身が最近は難しゅうしておるような気がするのです、ね。今日の私あのテレビあの相撲の、あれを大体相撲私あんまり好きじゃないから見ませんけども、ところどころまあ聞いたんですけれど、アナウンサーが言ってました、ね。大関か横綱にでもなるときとか、またはその大関の次んとはなんちゅうですか、下んとはもうそれからその大関にでもなると言った様な時の、自分の精進ぶりというのはですね、もう今日一日取りこぼしのないようにです。
今日一日のことだけしか考えん。もう今日一日のことが一生懸命だというわけ。そしたらいわば千秋楽というですか、その最後の済んだ時の、時にはいわば白星が多かった。もう負ける( )考えてない。もう今日一日をいかに戦うかということだけしか考えてない。この人弱いから強いからといっても区別はしない。それこそそれはライオンがです、ネズミ一匹でも戦う姿勢が同じだといわれておる。私その話を聞きながら(はぁ成程と思うたんですよねやはり)。
もう私どもは今日一日をです、なら難しくはないその信心をむつかしゅうせずにです、いわゆる運転を間違えずに、いうなら停車場に汽車に乗るために急ぐような、いわば余裕のある信心させてもらってです、おかげ頂いていかなければならんなと言った様な事を、私今晩の御祈念に思わせてもらった、ね。そういう信心させて頂いて、私はどこの誰が、例えば椛目に見に来ても頂きに来ても見せん、見たいものには見せてもやられる、頂きたいものには頂かせてもやれれるだけの。
おかげを頂いておかなければならんなと言う様な事感じたんです、ね。そして信心とはむつかしいものではない、ね。難しいものじゃないけれども、氏子から難しゅうする。私どもはほんとにそれを難しいと感じておる時にはです、私共がです、ね、いわゆるもう汽車ぎりぎりに私どもが駅に走っておるような、もう息が切れるごとある、だから難しいのである。ゆとりがない信心に、ね。
さぁ例えば椛目のここの者でいうならば、拍手でもなってからお広前降りてくると言った様なことでは、やはりだからいかんちゅうこと。だからそのことはなら、難しい事かと、実際はその気になれば難しい事じゃないと言う事。運転を体得するまではむつかしいかもしれんけども、体得させて頂いたら、眠らんように、整備を怠らんように、運転さえしていきゃそげん難しい事はないということ、ね。歩いていけば何時間かかるところをです、あっという間に汽車で行っても自動車で行っても飛行機で行ってもです。
あっという間につくだけのです、おかげの頂けれる、いわば信心のあるものとないものは、そうした歩いておる者と飛行機に乗っておる者の違いぐらいはだいたいあると、私は思うですたいね、実際は。ところが飛行機に乗っておるために危険を感ずるようなことではいけないっちゅうこと、ね。そしてほんのま一時だん、その汽車が待っとってくれりゃあよかとに。たった五分ぐらいのこと、ま、待っときゃよかとこいと言う様な不足。自分がおかげも頂ききらず、自分が乗り合わせきらずにおいてからです。
神様に不足を言う様な事では、信心はほんなこっちゃない。それではいつまでたっても信心は難しい事いになる、ね。だから私も本気でその気になると言う事ですね。本気でもう今日一日を信心にならせて頂くと言う事に、一生懸命になっていけば、いわば徳はいつの間に固まっておるというわけ。信心は何かこう、余分なもののような思い方をするところにです、私非常に信心を難しいものとして、に成って来るのじゃなかろうかとこう思うですね。まぁそう言わせて頂けば、思えば思うほどです。
なら私自身の修行時代の事を思うんですよ。あれだけの事がようやってのけられたと言う事の中には、ひとうつもきつさを今考えてみると、感じていなかったですもん。只有難いもの楽しいものばっかりだったですもん。してみるとあの時分のいわば勢いというものが、今欠けておるなとこう自分ながら思うんでございますけれども、ね。本当にお互い信心は見やすいものには、自分達の心掛けでしていかなければならないと言う事ですね。 どうぞ。